top of page

01_プロローグ

 

私は2013年の1月に「労働組合運動とはなにか」という題名の本を岩波書店から出していただきました。

20年間ぐらい、書店から「"労働組合"という名前の付いた本は出すな」と言われており、それぐらい"労働組合"とは人気のないテーマでした。

岩波書店さんも"労働組合"という名前の付いた本を出すのは初めてでしょう。

それぐらい日本の論壇では、"労働組合"というものは残念ながら人気のないテーマだったのです。

しかし、「ダンダリン」以上に、労働組合というのは非常に豊かな可能性を持っていて、私は、「労働組合なしには労働者は救われない」という、信仰に近い考え方を持っています

。非常に立派な労働組合とは私の神です。神とはなかなか見つからないものです。

しかし、「神はなくても信仰は美しい」というじゃありませんか?

「いい労働組合があるべきだ」そういう信仰に近い思いで、研究を続けてきました。この本の中では、労働組合という独自な組織の考え方や、哲学、そして、主として欧米に見る労働組合運動の歩み、それから翻って、近代化以来、そして戦後の日本の労働組合運動の展開。その帰結は企業別組合の定着ということになってしまったわけですが、その次の章で、労働組合・企業別組合の運動を非常に辛らつに批判しています。いろんなところから切って切って切りまくりました。

最後に、こういうような新しい展開ができるのではないかという、労働組合の多方面の営みについて書いてあります。今日はこの本の最後の二つである4章と5章の部分を紹介します。

もうひとつ、この本では、これまでやってきたということもありまして、労働組合の深刻な状況の現状分析ということをほとんどやっておりません。

そのことは、たとえば現在、ブラック企業が蔓延しているということは、社会的に定着した認識でありますが、今日は最初の部分の第一幕で、労働組合の現状はどうかということ。

"労働の状況"がどんなものかということ。そのことを通じて改めて労働組合の本をどうして出そうと思ったか。ということを枕にしたい。

02_増加するワーキングプア

 

現時点の労働状況の代案。これは一言で言うと、一方では38%近くになっている非正規労働者がワーキングプア化しています。

年収から言うと200万円より下がっております。

そして他方では、恵まれているといわれている正社員の心身の疲弊が進んでいます。この人たちも非常に不安定な状態にある。

皆さんの娘さんや息子さんが最近正社員になったという方いらっしゃると思います。

「もう、娘や息子は持つかどうか」

と心配なさっている方はいらっしゃるだろうと思います。

いま、非正規労働者のワーキンブプア化と、正社員の心身の疲弊と言うのは、分かれてしまっているのではなくて、相互補強の関係にある。労働運動は構造として、

その両者に注目して挑戦していかなければならないと思います。

大変厳しい労働状況について、一端をざっと書いております。

例えば、ワーキングプアーの底辺で、非正規労働者、フリーター、あるいは日雇いに近い派遣労働で、雇用を失った若者は必ず難民化になっている。

ファミリーレストランよりもひどい状態で、要するに一晩中歩いて、マクドナルドにはいる。

(マクドナルドというのは、ずいぶん遅くまで営業しているらしく、そこでは一番安いメニューを頼みじーっとしている)

マクドナルドが4時ぐらいに閉まると、その次は、もっと長く営業しているブックオフという書店に行く。

それで、ブックオフが閉まると、また早朝の街へ歩き出す。

そういう状況で、かつてのネットカフェ難民よりも状況がひどい。

その資料がレジュメ8番。「たどり着いたマクドの日」というニュースであります。ついでに言っておきますと、私はここに4枚の物語を出しております。

私は、朝日新聞はいろいろ問題はありますけど、こういう物語性の高い記事は充実しております。

労働運動の実践とは、こういった"物語"でこそ心に届けるものです。

こういうことが心に刻まれていき本当の思想を創ると考え私は"物語"を重要視します。

それが第一部の中にある「マクドナルド難民」です。貧困者の累積。

もうちょっと丁寧ないい方をしますと、資料の6番を見てください。これは現在の格差社会の状況という最も明瞭に示す一枚と考えてよろしいと思います。

これは労働者の賃金階級別の比率を雇用形態並びに性別に累積値を含めて書いたものです。

非常に有効な便利な表だと言えます。詳しいことは申しません。

読んでいただければよろしいのですが、例えば日本の労働者は、正規の職員だったら300万円以下(低賃金層です)は、男性は23%しかいませんが、女性は52%です。

52%の女性正社員は300万円以下で、これは経済格差が大きいということを示しているのですが、非正規の方を見てみると、話にならない。

非正規労働者は、数字を下げて200万円以下という風に考えますと、200万円以下の男性パートは79%、女性パートは93%です。男性アルバイト83%、女性アルバイト93%となります。

これは、ほとんどの人が200万円以下であって100万円以下も大変多い。都会で一人で非正規雇用で生きていくことはできないということを端的に物語っています。

先日岩波書店から出していただいた、「格差社会ニッポンで働く」で同じような表を使いました。

03_重層的下請構造化の労働者

 

そういう風に貧困者が累積している。例えば関越自動車道の事故に見るツアーバスの運転手。

過酷な重層的下請け構造の下にあってその底辺において、ツアーバスの激しい価格競争が重圧としてのしかかっている。

それからまだ被爆隠しが行われている。

放射能を防ぐようなものを計測器の上にかけて働くような原発労働者やツアーバスの運転手は、何層にも積み重ねられた重層的下請け構造の下にあって、例えば一人の労働者について、10万円や5万円の予算がついていても、最後に労働者本人の手に渡るのは、1万円以下であるというような状態。

郵便局の局員は1万枚もの年賀状販売のノルマを課せられ、ほとんどがディスカウントショップに売るんですが、もちろん安価で買い取られる。

売れない場合は自爆・つまり自分で買う。毎年数万円の支出を覚悟している郵便局員はたくさんあります。

非正規労働者のノルマは、少なめの8千枚。その代り彼らはそれを拒むと次の雇用が危ないというような人事。

もしも全逓労働組合が、例えば20年前のような姿であれば、決してこんなことは許されない。権利の前提です。

決してこんなことは許されません。

こんなことが許されるのならば、郵便局の労働組合がないのと同じです。仕事の量について何も言えない。

郵便局だけではなくて、どの企業も正社員は過酷なノルマを背負っております。そのノルマが過度な残業を・長時間労働を促しています。

これについても一つだけ資料を示しますと、年齢体系別にみる週就業時間が60時間以上の男性の正規の職員の割合ということで、週60時間以上働いている。

週60時間以上の労働ということは、週20時間以上の残業ということで、こういう日常がどれほどのものであるかちょっと想像してほしい。

これは不景気のためにちょっとその比率は減ってはいます。

平成19年から24年までの間に減ってはいるのですけれど、その一番新しい状況を示す平成24年の統計では、20代の後半でなお20%、30代の前半で21%、30代後半で19%が週60時間以上の労働をしている。

しかも年間就業日数200日ということです。これはかなり低く見積もっています。

なぜなら、日本の労働者の中間取得状況をみると、男性正社員従業員は確実に250時間以上働いている。

この250時間以上とは大きな統計の中にはあるのですけれど、それによるとこの比率は高くなっていると言わなければなりません。

ちなみに日本の労働者は平均して228日の出勤をしている。

これは日曜と国民的祝日などを入れれば、有給休暇を取っていないということになります。ご存知と思いますが、有給休暇の取得者は48%ぐらいで、今までちっとも上がっていないです。

有給休暇を返上するのが普通のことになっているということもまた明らかに示されています。

日本はパートタイムが増えていますから、労働者の労働時間の全体を足しても、減ってはいる。

それだけをとって「日本は2000時間頑張っているとか1800時間ちかい」とか言うんですが、一番の問題は超長時間労働者の比率が、諸外国と比べて抜群に高く、かつその比率があんまり減っていない。

たとえば週49時間以上働く労働者、週50時間以上働く労働者の比率をとれば、先進国の中では韓国を除いて日本はダントツに高い2位ということになります。

今までの先進国水準でいえばダントツで一番ということになります。そんな風に日本の長期間労働というのは高い。

04_人が壊れる労働環境

 

それから「追い出し部屋」というのがあります。

さっき「ダンダリン」の話が出ましたけれども労働問題は法律だけに依存することはできません。

ダンダリンがいかに頑張ってもできないことがある。労働基準局というのは労働基準法に違法と書いていなければ動いてくれません。

それで労働基準法は、仕事をさせて賃金を払わなければ違法だけれども、賃金を払えば仕事をさせなくても違法ではありません。

そういうことから2000年代のリストラから、「待機部屋」のようなもの使います。

セガエンタープライズなんか有名ですが、今でもこれがジクジクと続いております。

松下電器なんかも、「あなたの仕事は社内で引き取ってくれるようなところを探す。

あるいは、外へ働きに行けるところを探す。会社はあなたに与える仕事はありません」というような追い出し部屋が実は頻発している。

第2番目の物語は、資料の9番。「追い出し部屋」「客つくれ!会社来なくていい」と書いてあります。これはノエビアの例であります。

もちろんノルマが前提にありまして、"毎月の売上70万円" "顧客獲得毎月40人" と毎月会社から示される。非常に多大なものですが、これができない人が「マーケット改革担当」、内容は「追い出し部屋」です。

ノエビアではそういう名前をつけています。

ノエビアではどういう面談のやり取りが行われいてるかというと、

 

"上司"「あなたに求められているものと成果がずれている」

"社員"「地道にやるしかないと思っている」

"上司"「でも、あなたの能力は正直、低い。やり続けられるのか?」

"社員"「続けたい。移動先があれば希望したい」

"上司"「ない。この仕事だけだ。この実績でこれから何をがんばるのか?」

"社員"「逆にどうしたらいいですか?」

"上司"「逆に聞きたい。(やり続けると)よく言えるな

」"社員"「(長い沈黙)辞めろということか?」

"上司"「自分で結論を出してほしい」

"社員"「結論とは、やっぱり辞めるということか」"上司"「あなた自身が考えるかだ

」"社員"「わかりました。考えさせてください(約1ヶ月後に退社)」

 

・・・何さまなんでしょうこの上司は?

そんな風にして圧迫面接を重ねて、結局は辞めさせていくという。そうなると自発的退職になりますから、強制解雇にならない。

さすがにあんまりひどいと訴えれば強制解雇として違法扱いになることはありますけれど、その前に心が折れる。

今野春樹さんがブラック企業の問題を取り上げていますが、実は私もブラック企業については20年前から指摘をしていました。

今野さんの本の優れているところは、そんな風に

「あんたはダメだ。ダメだ。ダメだ」といわれたり、

「親の顔が見たい」とか

「どこに行っても役に立たない」といわれることによって、

心が折れ、

「私は何もできないんだ」「私が悪いんだ」

と、その嫌がらせに対し抗議することもできず主体性をつぶされる。

 

彼はそれを「民法的殺人」と呼んでいます。

そういう解釈が、「今野ブラック企業論」の優れたところです。

そんな風に心の問題にまで来ているということです。そこにハラスメントが加われば、余計悲愴です。

物語の事実は特にひどい例であり、こうなりますとフィクションを超えた感じがします。

オフィス機器の販売会社でコピー機を売る仕事で、もちろん重いノルマがあるんですが、大体電話でセールスするのが、うまくいかなければ手と受話器をテープで巻きつけ、椅子を蹴飛ばされ、テープを巻いた手で立ったまま電話をかけ続けた。

「そんなことでノルマが達成できなかったら、素っ裸になって机の上に立って踊れ」

 踊ったと書いてあります

。これが現在日本のまともな職場か?まともではないですね。

古いいい方ですが、これがもし親が見たらどんな気持ちがするかと言うことです。自棄になって

「殴られたり脅されたりするよりはこの方が良い」と「わかりました」

と返事をして踊る。

それもまた、人格の崩壊です。

結局彼はやめることになるます。そこまで労働者に対する圧迫が来ているんだということを見ていかなければならない。

こういうことから、サラリーマンの間に心の危機が頻発しているということは当然のことです。

それで心が折れて辞めてしまう。そうならず頑張り続けると過労死、過労自殺になる。

 

最後の物語。

過労自殺した自動販売機に清涼飲料水を補充する仕事場で働いていた人が、あまりの過労のために死んでしまう。

そういう物語。この人は長い間非正規労働者でした。

やっと正規労働者になった。正規労働者になったら、どんなにきつくても我慢するよということでした。

どういう仕事内容かというと、毎日15時間働かされて死んでしまった。

05_組合の衰退が格差を招く

 

この状況の悲惨さは現場労働者の発言権や決定参加権などが不在または弱体化されたためにある。

日本は奴隷制社会ではないので、労働の状況のひどさは、必ず労働者の発言権の弱さの反映なのです。

あるいは決定参加権の弱さの現れなのです。

それなのに私が示したのが、新聞記事でありますように、私が今言ったことは全部新聞に載っているんです。

そういう状況を報道するメディア、当の労働者たちの意識の中にも、現場労働者の決定権や発言件の弱さから来ているという認識が失われているといわなければなりません。

つまり労使関係です。

この状況なら労働者の発言権が反映しているかどうかを問うという問題意識が労使関係論なのです。

労働の状況を伝えるメディアに欠けているのは、労使関係的な視点の決定的な欠如です。

そして、そのことの結果として、状況の改善について、労働組合に対して、何の期待もしないし非難もしない。

人は期待をしないものには非難もしません。

世の中に、労働組合は何とかできるという期待がなければ労働組合は非難されない。

このような労働状況に対して、世論は労働組合にいかにあたたかいことか。

「労働組合はダメだ!」

という批判はほとんどないでしょう?せいぜい悪いのは、法律か政治であると。

 

法律や政治も悪いが、しかしこのような状況は総理大臣だとかが直接もたらすものではありません。

現場で起こることなんです。そういうところに労働者の抵抗がないから経営者の専制が貫徹してしまっているというにすぎない。

こういうところから決定的に欠落しているのは、労働組合を通じての労働者の発言権です。

私がいかに市場で苦戦しようとも労働組合の本を最後に出そうと思ったのはそのためです。

・・・・・こういう風になって行くには、もちろん日本で労働組合運動の衰退が著しいからであって、

これも一つだけ例をあげれば、最後にはストライキでもっても戦おうという気持ちが大事です。

 

ストライキと、口走るようなユニオンリーダが一人もいないということになってしまっている。

 

「だいたい、ストライキ権確立のない要求なんて、集団的物乞いにすぎない。」

と言った人は、ドイツのある判事です。

 

日本ではもう賃上げの感情がほとんどない。政府までも企業の応援をしている。

まぁ、1%賃上げをするけれども、今年はストライキで闘おうなんていうひとは一人もいない。

資料3.「ストライキ損失日数の国際比較」を説明します。

ストライキ損失日数というのは、スト件数×参加住民で、ストライキの絶対量を極彩にあらわします。これは年々変動があります。

2001年から08年までの平均の14,500日。これは日本で行われた全部のストライキということになります。

これだけの労働者数を抱えている国としてはストライキになるのは当然なのですが、これが少ないか多いかよその国と比較すると解る。

 

アメリカでは日本を1とすると123倍のストライキ。

イギリスは52倍。

労使関係が安定しているといわれているドイツでも12倍のストライキがあるということですから、

これで見ると、もう日本はもうストライキはなくなっているのと同じです。

 

要するにお願いして、経営者が「嫌だ」と言ったらお詫びする。

今年経営者がどれだけ寛容にふるまってくれるかどうかということだけが、"春闘"の関心になっています。

---率直に申しますと、私は"春闘"に何の興味もありません---おそらくほとんどは定昇(年1%の賃上げ)がされたら、よろしい結果となる。たいていは業績連動の賃上げです。

業績連動というのは、他社への波及ということをはじめから封じ込める戦略なんです。

なぜ賃上げはいいけどボーナスは悪いかというと、他者との比較が業績連動のボーナスにおいては特に難しいからです。

既存の企業別組合の運動はどこが批判されるべきか。という問題に入ります。

総括的に言いますと、組合運動の原点というのは、労働条件限定に関する労働者的な規範意識・労働条件とはどんなことで決まるべきか、それは同時に、当然のことでありますが、仲間との絆や連帯のようなものをあらわすことになる。

 

労働条件に関する労働者的な規範意識が忘れ去られていると考えることができる。

たとえば賃金を例にとると、賃金というのは我々仕事について同じ賃金とか、ちょっと問題がありますけどこれまでの規範でいったら、同じ年齢だったら同じぐらいの賃金というような、そういう規範性はもう無くなっていて、賃金は企業の支払い能力によって決まる。

これはもう仕方がないことだと。仕方がないことというかそれで正しいと、たいがいのユニオンリーダーは思い始めている。

 

その次に個人は、個人の間の賃金格差は能力・やる気の査定によって際限なく格差が生まれてくる。

その個人差に生まれてくる格差を、基準というもので組合員が規制していくという考え方そのものもなくなっている。そういうことからあらゆる賃金格差、性別にせよ、雇用形態別にせよ、企業規模にせよ、地域間にせよ、あらゆる形態の賃金格差は、維持または拡大というようになっています。

どういう格差内容があるかいうまでもありませんが、「国税庁民間給与調査2013年秋発表」から。

2012年の平均賃金は408万円で、対前年1万円低下、97年~2012年までの15年間で実に59万円賃金水準が低下しています。

これが、正社員ならば69万円ぐらい低下しています。非正規労働者はほとんど上がっていません。これはもともと額が小さいからです。

次に、男性対女性の賃金は100:53。

女性労働者は男性の約半分。正規と非正規の格差は100:36%と、そういう格差が維持されいると考えなければなりません。

 

賃上げの企業間平準化の営みが、少なくとも春闘興隆期の60年代・70年代から、日本の労働組合運動の歴史を通じて、企業横断的(同じ仕事に同じ賃金)という賃金率を設定することはついに一度もできていません。

それでも、春闘のさかんな時は賃上げについては、波がすべてを覆いつくすように企業間・産業間・地域間・職種間の賃金格差が縮まったとします。

「賃上げの相場」が形成されます。

その「賃上げの相場」を作るということが今はなくなっていて、単産の中に統一的な賃金・賃上げの基準で、一緒に行動するということが、なくなっています。

先ほど言いましたようにボーナスではダメだというのはそのためにあります

。せめてこの春闘は単産規模で、例えば「1%なら1%の賃上げを絶対に勝ち取る」という営みが復権されるべきである。

06_個人の受難に寄り添うこと

 

すでに38%ぐらいに達した非正規労働者の差別的な待遇が基本的に傍観されている。

もちろん、非正規労働者が生産やサービスの基幹部分に浸透している。

基幹部分に入っているということは、その人たちが業務の提供を拒否すれば、その産業全体が止まるということを「基幹」といいます。

熟練した非熟練などは関係ありません。

そういう風に考えると、現在、非正規労働者が産業の基幹労働者になっているという産業はたくさんあります。

スーパーマーケットなんかそうだし、大きな産業である弁当製造業もそうです。

弁当製造のほとんどはパート(非正規労働者)が基幹労働者です。

 

そういうところでは、非正規労働者の比率がどんどん増えてきて、放っておけば正社員だけを組織している労働組合の発言権全体が低下しますから、非正規労働者を正社員に迎える。

あるいは準正社員に迎えるという風な、そういう意味での正社員化は進んでいます。

少なくとも、登用制度という言葉は消える。

もっとも、実際に非正規労働が正規労働者になるということと、登用制度があるということはぜんぜん違うわけであり、登用制度を置くぐらいは開明的な経営者ならば誰だってやることです。

経営者にとって何の損もありません。男女雇用機会均等法にしても、ボヤッとしている男を落とし、男勝りの女を引き上げる。というのは経営にとっては徳ではあっても何の損もないのです。

だから経営側の思惑は、登用制度なんかではなく、実際に業績を上げるかです。

 

ということでは、例えばUIゼンセン同盟という連合系最大の労働組合は、確かに進めていました。

スーパーマーケットなどではたくさんパートナー組合員も増えています。おそらく、パートナー組合員というのは今の組合員以上に増えています。

しかし、よく調べてみると、雇用の有期雇用制を克服し無期雇用にし、仕事の内容に応じて賃金を均等待遇にしたというのは、広島電鉄ぐらいしか今はない。

 

広島電鉄こそは、嘱託の運転手・車掌さんも全部正社員にして、そして長期勤続者の年功昇給の分を削り賃金を同じにしたのです。

広島電鉄のようなことをやっているのは、ゼンセン同盟などではない。

だから、均等待遇と有期雇用制の克服がない限り、非正規労働者の差別待遇が傍観されているのだという既定はなお有効です。

その次に私独自の組合批判です。日本の労働組合が非正規労働者のことを傍観している・排除しているという批判はよくあります。

連合評価委員会などは、そこまでは言いました。かつての中坊さんなどです。

 

しかし、私はその意見は違うと思います。その理由として、今の正社員の組合員たちがしっかりと労働組合によって守られているという想定に立っているか?

 私は違うと思います。

先に言いましたように、組織労働者制の崩壊は、非正規労働者の世界ではもちろん、今までの正規労働者の中にも起こっているのであって、それが私がここでいうことであります。

今や労働組合は正社員である組合員の”個人の受難”に介入することから撤退している。個人の苦しみの問題を扱わなくなっている。

「組合というのは、みんなのためにあるのだから、個人個人のことは、そう面倒見ていられない」と言ってもらっては困るのです。

 

そこにこそ一番大きな罠があるのです。

なぜならば、能力成果主義的な選別の行きつくところは、労働条件の決定の個人処遇化です。

この”個人処遇化”とはどういうことかというと、どこの国の自治体でも”労働条件の相対”というのがあります。

労働協約だとか労働法で一律に決められる部分と、それから経営者の査定によって変わる部分と両方あります。

能力主義的な管理の強化というのは、この上の査定によって決める部分が大きくなるということであって、日本の労使関係ではこの部分の値が大きかった。

労働協約で労働条件を一律に決めるということすらあまりなかったので小さかったのですが、この間協約などで決められる部分が極端に小さくなり、この個人処遇の部分が極端に大きくなった。

簡単にいいますと、労働者の仕事量「ノルマ」、どこで働くか、その人に命令される残業の量などは個人別に決まるようになって、上司と個人との関係の中で決められるということが非常に大きくなったのであります。

その決め方については、面接制度・目標管理という手の込んだディーセントな方法が採用されいますが、結局これは働かせ過ぎへの誘導にほかならない。

そういうように個人別に決まってくる。

 

したがってこういうことが、わたくしが先ほど別記しました、ある人の超長時間労働・過重ノルマ・ハラスメント・退職の強要・心の危機・過労死・過労自殺というのは、つまり、労務管理の構造が生み出す問題ではなくて、”個人の受難”として現れる。

個人の受難として現れるようになったということは、それは従ってその人の”個人責任”とみなされるのです。

つまり、能力や努力が足りなかったからそうなったんだと言うことにされかねないのです。

そうすることによって、例えば、計画年休を設定するとか、労働時間は40時間から38時間にするというような一般的な課題は掲げるだけにして、そして実際に起こっている過労死・過労自殺だとかということには絶対に労働組合がかかわるべきなのです。

しかし現在、その傍らに寄り添って一緒に戦うということは、基本的にはありません。

私の周辺ではごく最近、新聞労連・茨城新聞社の労働組合がそうでした。

60年代の教師や交通関係の労働組合は、過労死した人と労働組合は闘ったものなのです。

今はそういうことはありません。もしあったら教えていただきたい。これが、「個人責任」とみなされる「個人の受難」です。

07_なぜ組合に期待できないのか

 

これはJIPT(独立行政法人 労働政策研究・研修機構)の調査です。

「労働者の労働組合観」で、「労働者が不満を感じたとき利用する仕組みや相談先は何ですか?」という質問があります。この回答の中で印象的なのは、[自社の労働組合・従業員代表]というのは14.9%で、8つの回答の中では最低の数値です。組合に相談する人はいないということになります。

上司に相談に行ったり、職場の面接制度に行ったり、(そんなところに相談するとかえってやばいんじゃないかというと思うのですが)、それよりも低い数値なので全然だめだということです。

その次の質問、「あなたの苦情・不満の予防や解決について労働組合に何らかの期待をしているか?」という質問では、あんまり期待していない・まったく期待していないという回答は47%以上。

その次が深刻です。「なぜ期待できないのですか?」という質問。一番高い回答が、「会社と同じ対応しかできない」。これは、会社の上司が言うことと組合員の上司が言うことは同じであるということが1番。

2番は、「労働組合の経営側に対する発言力が小さい」 

まぁそうでしょうね。

 

その次が「労働組合活動の情報が周知されていない」これはさしあたり中立的な回答です。

4番目、深刻であります。「労働組合に苦情・不満を伝えることで、不利益な取扱いを受けるおそれがある」これはしばしば聞くことであります。

労働組合に相談に行ったら翌日課長から叱られた。ということはあります。

これはいまの労働組合の幹部が、職制・下位職制もしくは下位職制寸前のものなのであって、下の組合員に通じているというよりは、上の上司と通じているわけですから、「こんな訴えがあったよ」というわけです。

これが現実なんです。

残念ながらこれが組合民主主義の現実なんです。

だから、「組合に言うとヤバいぞ」ということになります。まして労働基準監督署なんかに行ったものなら、ひどい扱いになるでしょう。

 

その次、5番目の回答。

「労働組合が従業員個別の問題を取り扱うことに関心がない」 

これは、要するに”個人の受難”に寄り添うということを労働組合はやめているということです。

 

総合結果を考えてみます。

特に2と3。非正規労働者への差別的な待遇と、正社員の個人の受難の放置。

そして、正社員の心身の疲弊ということの間に相互補強の関係があります。そこには様々なルートがあります。

 

たとえば、どちらから始めてもよろしいのですが、非正規労働者になるとまともに生活できないという認識は、正社員になった人の働きすぎの鞭になります。

つまり、

「正社員になれたらどんなことだって我慢しますよ」 という鞭です。

「お父さん正社員になったよ」ということで、大抵じぃっと耐えて働きます。

 

それからもう一つは、非正規労働者の差別的な待遇で、不幸にして、何度就職しても正規労働者になれなかった場合、例えば中年ぐらに離婚したシングルマザーなどはそうなのですが、やむなく非正規労働を重ねることになります。

セカンドジョブ・サードジョブ、二つも三つもパートタイムの仕事を持って、年にやっと300万円ぐらいの収入をやっと得ているというそういうシングルマザーがたくさんいるんです。

 

日本のシングルマザーの貧困率は、世界最高です。先進国の中では最高なのです。

要するに日本というのは失業率よりも、働いている人の貧困率が高い。

むしろヨーロッパなどは失業率問題が貧困の問題として現れるのに対し、日本では働いているのに貧困であることの方が多い。

シングルマザーはその代表です。普通の労働者よりも長時間働いているのに極めて貧困である。

その逆に、正社員の心身の疲弊は一部の若者をしてはじめから正社員になることを求められている。

「こんなんだったらフリーターになる」という選択の道を選ばせます。

 

その選択は間違っているとは言えない。

彼らのその感性は正しいかもしれない。

不真面目で非正規を選んでいるというよりは、例えばアルバイトで、正規労働者と働いた学生さんがよく言うんです。

 

「あんな働き方をするんだったら正社員になりたくない」 

 

しんだ魚のような眼をしている。元気がない。ものもはっきり言えない。

 

「あんなになるぐらいなら、フリーターをやった方がいい」 

 

もうひとつ、これが一番大きいルートなんですが、先に言いましたように、正規労働者は心身の疲弊から持たなくなってやめます。

 

ところがしばらく経つと元気が出てくるかもしれない。

そうすると求職活動に入ります。その時に得られる仕事は、高い蓋然性をもって、非正規労働者になる。

非正規の方がずっと求人倍率が大きい。そしてこの契約が切れ辞めます。

 

その次、求める仕事はもっと高い蓋然性をもった非正規の仕事です。非正規社員としての差別的な待遇にだんだん嫌気がさしてきます。

それで求職活動をしなくなると、彼らはニートです。考えてみると、正社員の明日はフリーターかもしれない。

フリーターの明日はニートかもしれない。

はじめから真面目さにおいて格差がある正社員になる人と、それから非正規労働者になる人とニートになる人と、3種類の真面目さの序列があるのではなくて、みんな地続きなのだ。

 

同じ人の運命、同じ運命の中にある状態なのだ。そういう把握が必要なのです。

それで面白いと思う証拠は、参考資料の文章の2番目。これは私には大変衝撃的なことです。

 

<2010年の大卒・専門学校卒77.5万人(=100%)の2012年3月の就業状態> 

その団体では、56.9万人73.3%が正社員になりました。これだけ見れば結構高い値だということになりますが、

ところが2012年3月・2年後の就業状態をみますと、正規労働者として入った人の、3割以上は退職しているのです。

 

19万9千人が退職していまして、

これを加えるとはじめからの非正規雇用と、中退とそれからそういう退職した人を足すと、40万6千人であり、

これは卒業した人の52.3%なのです。

もともと73%だった正規労働者として就職した人は今や47.7%です。

こういうことです。2年経てば若者は非正規のほうが多くなる。

正規職場からの排除ということです。

08_産業民主主義という思想の復権

 

では、どういった労働運動の可能性があるのかということを、最後の項目として述べていきます。

 

まず、「思想の復権」みたいなことがやっぱり大事で、労働組合のものの考え方というのは今日ははじめから終りまで丁寧にお話しませんでしたが、私たちが今見ておかなければならないことは、一般に民主主義のシステムの中にあるといわれていますが、日本の民主主義の中では、産業民主主義という考え方が極めて希薄であったということにほかなりません。

その産業民主主義の考え方というのはどういうことかと言いますと、

 

これは「労働組合運動を尊重する」ということと、ほとんど同義なのです。

 

ちょっと抽象的に言うとこういうことです。

労働者の人生に決定的な明暗をもたらすものは労働条件でありますが、その労働条件の決定は、はじめから国民的多数決によって、特に政治の場で決めるのではなくて、その労働の現場に働いている人が、その人々にとっての一番切実なニーズを痛感できるのだから、まずその人々が労務提携を含むような要求と構造をもって戦う時であります。

 

後で様々な勢力に対して妥協することがあるにせよまずそこに進むのだというのが産業民主主義の考え方です。

 

この考え方はもっとゆっくりお話したいのですが、近代以来、日本で一番欠如していた考え方であります。

戦後展開した民主主義の中で比較的弱いものであります。

例えば丸山真男以来の認識論の中で、このような種類の考え方はあんまり取り上げられなかった。

 

---皮肉な言い方をすれば、労働運動というものはどこか国民的なものだという想定が私達の中にもあって、逆に労働運動というものは国民に支持されるはずだ、と思い込んだ。

それがいま、公共公民労働者の労働三権の考え方で、世論はいったいどっちの方についているかというと、直ちにその問題点は明らかです。

日本で労働組合運動が、こんなに重視されないのはそういうことにあるわけです。

公共部門の労働三権の剥奪とは小さい問題ではない。

これはまさに日本を日本たらしめているような特徴にある。

ここのところは政財界は、大きな同調がなければなかなか譲歩しないだろう。

日本の世論も本人に労働三権を与えようと言う風なところまでなかなかいかないでしょう。そこが問題なんです。

 

だから例えば、大阪での橋本政治などは、遷都化するという案を盾にして、労働者の発言権や産業民主主義を抑圧することができるようにしている。

そういう考え方が出てくるのです。

 

ちなみに、こういう産業民主主義が強固であって、その産業民主主義が個人の受難を抱擁するということがない限り、普通の民主主義のシステムから、容易にファシズムが生まれます。

 

逆に言うと産業民主主義が強力で、それが個人の人権をしっかりと擁護している国では、国の経済がどれだけガタガタになろうとも、決してファシズムになることはない。

たとえばイギリスは少しそういうところがあります。

 

そういう考え方の上に立って、私は、いま日本の労働界に必要なのは「企業別組合が唯一であるという迷言」から脱すること。

労働組合というのは、労働者という多様な階層を持つ階級の、それぞれの階層の存在形態とニーズにおいて、いろいろな労働組合を生み出した。そこのところを自由に考えていくというのが大切です。

09_今後の在り方-エリート組合員たちに社会的責任を

 

以下、不十分になると思いますが、私は五つの今後の労働組合の在り方を考えてみました。

まず、キャリア展開をしていく大卒の男性総合職のようなものを頭に置きました。

こういうエリート社員たちは、既存の企業別組合を離れることは決してありません。

こういう人は企業別組合では仕方ないと割り切るのも大事です。

その場合の企業別組合、たとえば「企業間競争での勝利」だとか、「能率的選別の正当性」などが血肉化してしまっている。

そういう人たちが、考えられることは様々な企業の社会的責任のようなことで、比較的労働者の生活や福祉に関わるようなことを重視させるような、経営参加的運動しか仕方がない。

 

それともう一つは、エリート社員といえども重視せざるを得ない、ワークアンドライフバランスの要求はここからでも出すことができる。

例えば、彼等は仕事が多いから労働時間を短縮できない。と必ず申します。

労働者の生活の方が、仕事ノルマ達成より大切だと考えることはありませんが、

それでも、絶対的に「ワークアンドライフバランスを上げれば日本はダメなんだ」という論拠で、

「インターバル制度には協力せよ」

というふうに迫ることができる。

 

---インターバル制度とはあまり言われないですが、仕事の中身を飛び越えて、会社時間から、次の出勤時間までの間の絶対時間を確保するということです。

これはEUの労働既定にあり、11時間です。11時間ということは、前の日、午前0時に退社すると、翌日は11時に出社すればよいということです。日本でもちょっとありますけど、いかにも日本らしくて、インターバルは8時間です。

8時間だったら、0時に退社すると、翌日8時出社になります。だからまだまだです。

 

このインターバル制度というのは、たとえば過労死防止の文脈なんかでも要求されてもいいのですが、要するに、とにかく人間の生活であって、睡眠やその他大事なんだ。ということだけで迫っていくというやり方です。

私が一番重視しますのは、企業別組織を産業別組合支部に内部返還するような営みです。

これを一番重視するということは、今の企業別組合を批判する人たちはしばしば、そこの組合だけに期待するというふうに流れてしまうからです。私はそれはダメだと思います。

この本「労働組合運動とはなにか」の労働組合の歴史を記したところで、アメリカの大衆ノンエリート労働者と、自動車工業労働者と労使関係の激しい闘争も含めて、詳しく紹介しました。

これは、形としては企業内に集まっている労働者の組織を前提にしています。

紛らわしいと思うかもしれませんが、内容的には全然違います。

ひとつは産業別組合の支部に内部変革しようとする労働組合は、労働条件の企業間標準化へ再挑戦していくということであります。

---これは長い間労働条件に企業間標準化という課題は、放置されてきました。

 

やっぱりそういうところはもう一度振り返って行く必要がある。

その次、常用型非正規労働者の組織化と無期雇用化及び均等待遇。こ

れは乗用型非正規労働者と言いますのは、ずっと正社員の傍らで働いていて、正社員とほとんど同じような仕事内容になっている人のことを言いまして、ここのことろでは一見冷たい様に見えますが、全く臨時的な非正規労働者や派遣労働者とは、存在の仕方が違うという見方です。

例えば地方の工場なんかでは、「フルタイムパート」と呼ばれる不思議な存在があります。

 

これは、「傍らで働く仲間なんだ。そこのところは同じなんだ」という意識です。

 

先ほど広島電鉄の例をあげましたが、広島電鉄なども運転手はまったく同じ仕事をしている。

やっぱりそんなことを無視して、全部の非正規労働者は同じ労働者というのは少し無理があります。

 

ここでは当然のことながら、無期雇用化と均等待遇に突き進まなければならない。

10_今後の在り方-個人の受難の連帯的規制

 

3番目はさっきの繰り返しでありますが、個人の受難への連帯的規制ということで、このことは能力主義的な観というものを少なくとも絶対視しないということ。

 

ノンエリート労働者が心に抱いているサバイバル的な競争を、いやだなぁという気持ちをまともに政策に変えていくということです。

私は最初に書きました、岩波新書の「能力主義と企業社会」という1997年の本で、

(これは私のだした本で一番売れた本だと思うんですが)この中で「能力主義管理との付き合い方」という最終章では、徹底的にどういうことが可能かということを突き詰めて考えています。

 

日本のようなところでは、「能力主義絶対反対」と、左派のスローガンでありますが、それは通らないと考えざるを得ません。

ゆとり・仲間・決定権という、そういう3点の機軸にして、現実に出されてくる能力主義管理というものを、内容とどの人が能力があるか、ということのハードルの高さというものに区切られて介入している。

そのうえで、労働条件が変わる限度というものを規定する。

 

例えば年収が、プラスマイナス20%以内に絶対にとどめるということをやる。

前は組合はそういうことをやっていた。今はとめどなくなっています。そういう種類の介入を行うということが、大切です。

 

いずれにせよ、第二形態の労働組合は、個人の受難に寄り添うのをお題目のようにすること。

個人の問題が組合に上がってきていないというのは、決していいことではない。

 

いま、たとえば過労死が起こったり、セクハラやハラスメントが起こっていたりして、新聞記者がその会社に行って労働組合に訊くと、労働組合の幹部が答えるのは決まっている。

「その問題は組合には上がってきていません」---「上がってきていない」とはお上になったつもりでしょうか?

---必ずそういう風にいいます。

 

そんなことは決してない様にしてください。個人が、そのしんどさを組合に持ち込むことができるように、そしてそれについて組合が何らかの擁護することができるように。

たとえそれが裁判闘争であったり、どこかの機関の提訴であっても、一人で行くのと組合がついていくのとどれほど違うか?

ということです。

 

この次は皆さん違う意見があるかもしれません。

非正規労働者の正規化を図り、同時に首切り絶対反対ということは、無理があります。

これは一番議論が多いところです。私は、個別企業レベルの組織というものは、雇用調整に現実的な対応をせざるを得ないという風に考えます。

今は、終身雇用の建前のもとで企業が選別して、退職勧奨・退職強要に持っていくことによって日常的にリストラしているのです。

ここで大事なことは、「誰を排除するか」ということを企業が選んでいるということです。

 

それに対して、私の言いたいことは例えば、個別企業に過剰人員が出るということはありうるわけであって、その時に何をなすべきかというと、まず、「ワークシェアリング」です。

労働時間を少なくし、それに応じて収入を減らすことによってできるだけ排除する人を増やさない。

「ワークシェアリング」という考え方ができるかできないかということが、”連帯”と”絆”があるとないとの違いであって、

「クビになるのはその人の責任だから、われわれの責任ではない」という考え方ではなりません。

欧米の強靭な労働組合は必ずこの「ワークシェアリング」の考え方の伝統に根ざしている。

そして、そのワークシェアリングがあまりにも程度が大きくなりすぎて、限度が超えたところでは、セニョリティーに基づく一時休業制を採用する。

その企業に働き始めた年限が短い人から、いわばその会社の一時休業制にする。

その一時休業の時にどれだけの保証が得ることができるかという、別の構想の目標です。ここで一番大事なことは、休業している人は、そのもとの会社に雇用の優先権を持つということです。

それで、元の会社の景気がよくなってきても、その一時休業している人がその会社に、再雇用されるまでは、働いている人は一分でも残業してはなりません。そういう考え方です。こ

れがアメリカが考え出した「セニョリティーにもとづくレイオフ」です。

 

整理解雇の四要件というものがありますが、その3番目かに、リストラに代わる(解雇に代わる)いろんな措置を取ったか。

という項目があります。そのいろんな措置の筆頭にワークシェアリングと一時金を背負うべきだと言っています。

繰り返しますが、今、かなり自由に人選も整理も会社によって行われています

終身雇用も建前。いったん選ばれた人はもう決して戻ってくることはできない。

その間、また景気がよくなって新しい人を雇うかどうかは全く自由です。それは間違っています。

 

職場で働いている人は、その職場に対して、居住権を持っています。

その居住権は一時休業になっても、再雇用されるという優先権として確保されるべきだ。というのが私の考え方です。こ

れは長期的に議論を要すべきところです。

こういったことをすることによって、企業に存在する職場組織は、産業別の仲間としての自覚に基づいてやっていくことであります。

熊沢誠_「労働組合運動とは何か」

2014年1月講義

 

11_今後の在り方-労働条件はたばこの値段

 

その次の形態は、無いようでわりとあるものですが、ものすごい下請け構造があったり、小企業がいっぱい群生していて、労働者の技能が共通しているような中小企業分野があります。印刷業界なんかはそういうところがあります。

 

その企業ごとに労働組合を作るということよりも、その地域のその産業の単一労働組合にします。

そこでその組合員に、そういう横断的な単一組合に労働者が登録することによって入る。

統一労働協約によって、労働条件の標準化を企業経営予見として、押しつける。

「押しつける」といういい方は悪いかも知れませんが、もともと労働条件というのは「たばこの値段」みたいなものだ。

とよく言われいてます。たばこなんてどこで買っても同じです。

労働条件というのは「この銘柄についてはいくら」というふうにどこで買っても同じようにするのは、労働組合なんだ。

 

こういう考え方は日本であるでしょうか? 「全港湾」なんてそうです。

全港湾は中小企業の組合がたくさんあって、組合が一つで港湾労働者が港湾労働組合に登録していて、雇用の優先権を持ち、そして共同雇用制である。

統一協約で労働条件がだいたい明文化されている。そういう風に考えてもいいのではないか。

 

小さい印刷業界なんてそうはうまくいかないかもしれませんが、共同印刷の争議で、宣伝は共同印刷の争議だから、共同印刷の労働者がやったのでは意味がない。

文京区の労働者がぜんぶ印刷労働者で協力する。

もともと印刷の印刷工なんて言うのは、横断的な存在で、企業の方はものすごい大きいものがあるかもしれませんが、大体みんな小さい企業が多いのです。

そういう小さい企業が生き残るために、みんな労働者にひどいことをやっている。

 

だから、その企業ごとに組合を作るというよりは、地域の産業別労組で問題を解決できるのではないかと思います。

「関ナマ」(関西生コン)なんかそうです。私はFaceBookに”私の夢”として、「福島に原発作業員の単一労働組合を!」と書いています。

これは、"いいね"と"Share"が100以上になりました。

私は常に思うのですが、原発労働者というのは元請けまでは大企業ですが、そこから下がって4次ぐらいの企業が監督して、7次企業より下で原発労働者は働いているという風になっています。

でも、福島に原発作業員労働組合というのは、まずナショナルセンターがあって懸命に努力し優秀なオルグを配置して作る。

そこへみんなに入ってもらう。そして、同次元の労働者であろうとも、東電であろうとも交渉を進めていく。

企業ごとでないと交渉をしてはならないということは労働法では決まっていない。

(日本の労働法では、団体交渉の応諾義務というのは次元にかかわらずあります)

 

これが私の夢であります。

そうしていくと、業界の方も組織化されるんです。統一労働組合に対して、個別企業の弱小経営者が雇って働かせるものじゃないと、向こうの方も経営者の関係を作る。

そこで協約が統一化される。

行政関連ユニオンという東京の連合としては、とても優れた営みだったそうで、これは、公共業務から清掃を委託する企業まで、そこのところで政治改革が起こりました。

東京ユニオンに駆け込んできたり、東京連合に駆け込んできたり、東京連合の本部がここに行政関連ユニオンを作る。

そして、どの委託会社にも入札の切り下げの競争を防ぐと同時に、例えば板橋区という区の方にも交渉の手を広げては、あまりひどい契約をさせないようにする。

…これなんか公契約条例運動になります。

自治労働体がやるのではなくて、下からの公契約条例の運動は注目すべきものです。

12_今後の在り方-企業横断的クラフトユニオン

 

その次の形態は、日本では特に伝統が無いので忘れがちになってしまいますが、

もう日本でも、いまでは専門職の非正規労働者もずいぶん増えてきました。

とくに公共部門では、非正規という専門労働者が多いですね。

 

ここでは企業横断のクラフトユニオン職業別組合が必要で、この職業別組合というのは、明治時代に一番出てきたのはこの労働組合です。

そもそも労働界では「職業別労働組合」が最も老舗の労働組合なんですが、治安警察法によりすぐにつぶれたということも有りました。それ以来なかなか日の目を見ることができませんでした。

だけど、これからは特に専門職の世界で、雇用形態にかかわりなく労働条件を標準化していくという職種別の集まりが必ず有効になってきます。

 

そのでき方は色々です。

例えば各地のコミュニティユニオンの中で、一定の職種の集積があればその組合の独立的な行動を認めるということがあります。

ガテン系労組だとかは、フリーター全般労組に、フリーター全般労組の中にカメラマンのクラフトユニオンが出来上がってくる。というような場合があります。

それからコミュニティユニオンの中で看護師達が多かったら、看護師たちの共同行動を育てることによって、地域の看護師または医労士の集まりをつくってゆく。というやり方もあります。

単産は、その産業の中で働いている非正規の専門職の組織化を助ける場合がああります。

出版労連は、フリーライターが集まる「出版ネッツ」というのがありますね。

フリーのライター達というのは、内容的には実質労働者で、形式的には自営業に分けられる場合があると思いますが、かなり色々と生活していく上で不便なことが多く、著作権だとかいろんな問題があります。

出版労連はネッツというフリーの編集者組織を作って、その出版ネッツが会社に交渉する場合、出版労連も一緒にやっております。これもクラフトユニオン的な営みと言えるといえます。

これは、今では専門職です。

専門職の労働組合というのは、ある意味団結すれば非常に強靭な運動ができるというわけです。

 

最後はいわゆるコミュニティユニオンという風になります。

このコミュニティユニオンの中心的勢力、一番の組織分野は「流動型非正規労働者」です。

この流動型非正規労働者と先ほどの常用型非正規労働者と一応境界はあいまいですが分けています。

これは、今働いている企業で組合を作るというよりは、先に申しましたように地域のコミュニティユニオンに直接入って生活を守るというやり方が有効なように思われます。

これは1983年に、総評の最後の分割が生み出しました。

これは「総評最後の攻防」と「総評運動最後の光」と私は思います。それ以来、紆余曲折を経て、2006年ぐらいに新たに若者たちが、先代のコミュニティユニオン(全共闘世代)とは違って、若者たちが若者ユニオンというと、首都圏青年ユニオン・フリーター全般労組・ガテン系労組・派遣ユニオン色々あります。

それらを合わせていまコミュニティユニオンの運動になっている。その二つが文化的に違うところがあるという事でなかなか一緒に活動してもらえないのが残念です。

13_今後の在り方

-企業横断的クラフトユニオンユニオンのために10円カンパを

 

こういうコミュニティユニオンは先にいいましたように、普通の労働組合が個人の受難を扱わなくなってきましたので、個人労働紛争が大変多くなっています。

その個人労働紛争の解決の先は労働局だったり労働基準局だったり、コミュニティユニオンだったり、それからちょっと時間がかかりますが裁判所だったり、労働審判所という考え方も有ります。

その中で、裁判所の判決を別にすれば、コミュニティユニオンによる個人の問題の解決率は私たちが思うよりはるかに高いのです。

一番高い。労働基準監督署より高い。

なぜ、労働基準監督署や地方の行政の労働局よりも高いのかというと、それは簡単であって、なんたってコミュニティユニオンは労働組合です。労働組合は交渉に出かけたらやらなきゃいけない。

それに対して労働基準監督署や労働局は、一般には勧告やあっせんであり、これは経営者が訊かない場合は終わりになるんです。

それに労働基準監督署は先ほど言いましたように、労働基準法の明瞭な違反が無ければならないのです。

だからコミュニティユニオンの光の部分が大変強いのです。

 

光の部分が大変強くても、陰の部分もまた、当然あります。

なぜかといいますと、例えば個人の受難をこうむった人がいます。その人は救済はされますが、たいていは金銭解決であって、個人の受難を生み出したその会社の労務管理の構造そのものにはあまり立ち入れない。

限界がある。

それにコミュニティユニオンの方もいつまでも、みんなを抱えておく境界がある。

「菓子折り解決」と申しまして、コミュニティユニオンというのは本当に献身的に働いてくれます。

よくあんな風に働いて、昔に例えるなら、貧民窟の牧師様みたいな神父様みたいな、ほんとによく働きます。

食うや食わずで奥さんも働いて、そして自分は紛争に一生懸命になっていくという様なそういう人がたくさんいます。

コミュニティユニオンに一人専従がいたらいい方で、そこの所であえて言うならば、解決してもらった人も、やっぱり今の青年ですから、それなりにやっぱりドライです。

菓子折り持って「お世話になりました」と、後は絶対来ない。それを「菓子折り解決」といいます。相談に来た人が今までお世話になったのだから、今度は私の番だと言うことで、組合員として定着するのならどんどん大きくなってくるのですが、そんな風にはいきませんだから大きいところでは50人という組合員、その規模でやって行く。それでも1983年以来脈々と続いている。

 

いろんな問題を解決していると言うことをわすれてはなりません。

これを生き延びさせる。少なくとも一番企業別組合とは違う労働組合です。

コミュニティユニオンは人気があるけど実力はない。

だけど明瞭な企業体的存在であるから、生き延びさせなければなりません

これを生き延びさせるためには、やっぱり連合とか、全労連とか全労協とかいうものの、「身銭を切った援助」というは必要なんです。

 

私はいつも思うのですが、総評は昔、合同労組の為に10円カンパというのをやった。

連合をたとえにすれば、連合が衰えたとはいえ600万以上。だいたい月に10円出したらどうか。

月に10だけ出すだけでも、ものすごく楽になります。

月に100円出したら、コミュニティユニオンで見たこともないような金になります。

 

そういう風な特別なカンパをやるならば、とてもたくさんのオルグを雇うことができる。

自分の足で立つことができる。

それをやったらどうかというのが私の提案なのですが、誰も聞いてくれない。

 

もうひとつ、非正規労働者を、常用型非正規労働者と、流動型非正規労働者と一応分野的には分けていますが、勿論間は空洞的であります。

こういうコミュニティユニオンが企業の問題を扱う場合、この産業別組合の支部の様になった、企業組織との共存体制が開発される必要がある。

私がこういう風にすべきであると言うのまだまだ抽象的なことであり、議論されなければならないところが多いのですが、だいたいそんな風にお思ったりもします。

14_「権力」と「個人」の間に位置する「労働組合」

 

これから話すことは、この本の中ではあんまり議論されなかったということです。

むしろ講演会の中で、言われたことを印象に残っておりまして、それ以来少しずつ考え始めています。

 

「先生、そんなこと言うけど、組合なんてのはそんな民主的なものではないんです。嫌だって言っている人は多いんです。」

と言われたことがあります。私それは解からないわけではない。

今の労働組合の現状というものが、大変ふつうの人たちにとって、窮屈であるというのはよくわかる。

これについてわたしが20年来考えていたことを少し命題として分けてみる。

 

第一の命題は、一介の普通の労働者において、

自律人権の擁護は企業や国家と自分との関係を媒介する「中間組織」なしにはできない。

労働者個人として企業や国に対して直接人権擁護するということは普通できない。

それは、しっかりした中間組織があって、その中間組織に抱えられることによって自分も人生を遂げることができる。

ということが多いんだという風に考えられます。

 

その中間組織の代表的なものはもちろん、労働組合であります。

さっき言いましたように労働組合は個人の人権を守る。

そのことを保障するという産業民主主義無しでは、民主主義が危ないという風に言いましたことです。

だから私は個人の受難に寄り添わない労働組合は論外という風に思うのはそのためであります。

 

その場合中間組織というのは、労働者ではない人もいるわけですから、例えば家族であったり地域社会であったり、かつての農村共同体であったりすることも有ります。

とにかく中間組織が必要である。

 

とはいえ、この場合は中間組織の体制である。企業が組合員に充足して、その中の小ボスが組合員の自発的行動を抑圧するならば、個人の事実と人権は、未組織である以上に危うい。

かえってない方が人権が守られる。そういうことはいくらもある。

それは大変抑圧的な関係にある家庭であるとか、夫婦関係であるとか、そういう場合もそうだし、それから、労働組合が全く企業とべったりで労働者の行動を統制したり監視したりするという場合では、そうだろうという風に言える。

そういう場合、出来ることは「個人提訴」ということで、企業をそれぞれの組合に訴えるとかという風な事しかない。

 

良くある現実は、既存の労働組合の企業内オピニオンリーダーが、労働者を抑圧している場合。

(企業内オピニオンリーダーと言う風に私が申しますのは、管理者と、その管理者の直前にある精鋭正社員、それから企業別組合の幹部、その3者は普通すでに文化的に体制の中にあり、その文化的体制を保っている文化とは何かとは、企業間競争の勝利、絶対視、そして能力主義的あるいは成果主義的銑鉄の正当化という凝り固まったものです)

 

実際、私は大企業の労働組合の幹部というのは、たとえば連合なんかは、「連合になったからそれなりになった」というんです。

社会的なセクトになったと。

一番問題なのは、企業別組合の委員長です。企業別組合の委員長なんかは、何様と思っているのか。という方がいます。

 

そういうような人たちは企業の中では競争なんだけど、企業というのは目的社会であるということから、小数であれどもオピニオンリーダにはなかな逆らえない。

普通の労働者たちは競争的な選別・特にサバイバル的な競争というのは忌避したい。

ノンエリート従業員や、女性や若者は忌避したい。

しかしその人たちの自由な発想や発言は、普通抑圧されているわけであって、簡単に言うと企業の中ではものを言えない。

だから、女性や若者は、--女性は男性以上にもっともっと労働組合運動にその場を求めてもいいような本来的ノンエリートなんです。

特権を持った正社員の女性労働者なんて本当に一握りしかいない。

だから女性はユニオニストであってよろしいのですが、やっぱりなかなかそうはならないため、

「先生、そんなこと言ったって今の組合というのはもう男性中心社会だけではなくて、自由にものが言えないんです」

という声を聞きます。

そういうことの認識が私のこの本では甘かったと言う風に反省させられているわけです。

 

せめて役員選挙のあり方や、職場討議の在り方の様なものが、自由な選択の場であるようにするということは第一の条件です。

こういう現実に鍬入れしていくような組合認識の再確認と、産業民主主義の復権という、--少しきざないい方をすれば、労働者の明日を進んでいく車の両輪みたいなもので、どっちが欠けてもよくない。

 

この頃家庭とか教室とか、運動部だとか職場だとかいうもののハラスメントと暴力というのは、ちょっと微妙なものがあると思います。

何でこんなになったんだという気持ちがとてもあって、普通の人が属している

小宇宙の中での支配というものをなんとかしないとダメなんじゃないかととても思っています。

15_労働組合の真意を計る

 

最後にエピソードを付け加えます。

私が労働組合が本物であるかどうかということは、政治的アジェンダとの有無というものから一応切り離しております。

 

これは皆さん反発があるかもしれませんが、

私は脱原発をアジェンダに入れているかどうかに対して本当の組合であるかどうかとの区別はしたくはありません。

なぜそうなのかというと、切りが無いのです。

 

どこまで政治的アジェンダを取り上げて活動すればいいのか。

私は組合の真偽を計る指針というのは、自分たちの決めている労働条件・決定というものの背後にどれほど世の中の人に増やしていくかという事を本当の組合であるかどうかの真偽としている。

東京電力労組が「原発反対」という事を掲げないから、東京電力労組は本当の労働組合ではないということになる。

東京電力は、東京電力のために働いている被ばく労働者を無視しているから非難される。

私はそのように思います。

 

私個人としては四日市という地方都市で、脱原発の市民運動を初めて起こした者です。

3年間毎年一回デモをやっています。ゼロから始めました。

政党や組合の支持はありませんでしたから、ビラまきから始めました。ビラまきの所で痛感するものがありました。

ビラを受け取る人と受け取らない人がいる。

受け取らない人というのは、一つはものすごいおしゃれな若い女性。

もうひとつは、ネクタイを締めた堅気のサラリーマン。これが絶対だめなんです。

堅気のサラリーマンは私たちが話しかけたりすると、あたかもエイリアンが現れたかのように身をすくめる。

拒否反応を起こします。割と受け止めることができるのは女子高生・中年以上の女性なんかは比較的に多いです。

若い男は全体的にダメです。これはつらいことです。

つらいことですけど、私は市民運動をやる以上は集まるにきまっている人だけではなくて、呼びかけられた事もない人にも議論をさせようと私は思っています。

それは努力してやるのですが、そこから思いますことは、実はそういう教育をするということは、企業社会の常識であり、つまり、企業人の心得という風に考えていいのではないか。

その場合の企業人の心得というのは、一言で言うと、原発よりも景気回復の方が大事ということです。

 

そしてそれに付け加えるならば、秘密保護法に関してもビラをまきました。

反応は同じであります。テレビを見ていましたら、会社員は、「秘密保護法は当然である」と言っていました。

企業の中では表現の自由なんかなくて、望んでもないものであって、当然会社には秘密遵守というのがある。

だから国にも秘密遵守があってもいい。

企業の人々の窮屈さみたいなもの、かじかんでいるサラリーマンが政治的な抵抗力の欠如となって現れいていると思わざるを得ない。

最後に申しました属している小社会(小宇宙)の中での発言の自由とは、そういう問題意識にもつながっているということを蛇足ながら付け加えます。

bottom of page