UnionWorkshop
大美堂労組_奥田雅雄
私(奥田雅雄)は、1951年生まれで今年(2013年)で62歳になります。働き出したのは高校を卒業した1970年(いわゆる70年安保闘争が終わったころ)に大美堂印刷に入社し、38年間印刷工として勤続してきました。大美堂印刷社はオフセット専用で、手だしの機会とか当初はありました。当時は二か所に工場がわかれていて、工場の近くにはチンチン電車が走っていました。70年代は高卒者の就職が多く、その時に入ってきたメンバーが組合を作って最後まで残り、この争議の柱となったメンバーでした。組合結成は72年、それまでは組合はなかった職場で、とにかく高校を出て働いたところが印刷現場。印刷現場というのは長時間労働・低賃金というのが当たり前という構図があり、毎日残業あったりして、、、「これはおかしぃんちゃうか?」「なんとかせなあかんやろ」ということで、「それは組合つるしかないなぁ」というので、作り出したのが2年たった後です。入社当初から「組合をつくろう!」と意識的に思っていました。そうこうしているうちに、同期や1~2年前に入った人たちが「組合つくろう」と意見に賛同していきました。その時は40人ぐらいの会社で、私は印刷機だけ置いてある工場で働いていて、毎日残業ばかりで一ヶ月で100時間ぐらいの残業でした。「これではあかんなぁ」と思い、当時学生運動をしていた営業のメンバーも片方で組合つくろうという動きがあり、これを集約し、工場合併時に組合を結成しました。(1972年)
結成当初は、退職金もない・祭日も出勤など労働条件はかなり悪く、これを何とか普通の会社にしていきたいということで、13項目ぐらい要求を出しました。この13項目の要求提出が組合結成の時でした。当時40名ぐらいでほぼ全員が組合員となりました。このときの団体交渉はかなり過激でした。灰皿は飛んできたり、「これが交渉だろうか?」と思うぐらいのものでした。そういうものに鍛えられたというか、職場でも団体交渉はこうあるべきだという意見もあり、大衆団交・全員で交渉をするという方針で進め、組合はみんなでかかわるものだと結成当初から交渉は常に食堂での団体交渉でした。
そういう中で熟練の労働者は、会社に要求ではなく、「お願いする」という態度を取っていく中で、「こういう組合ではついて行けない」と、離れていきました。基本的に組合は闘う組合だというのをはじめから目的意識的にやってました。そうやっていく中で(熟練労働者は)だんだん離れていきました。一方13項目の要求改善はほぼ勝ち取っていきました。中退共に関しても、私は毎月1万円で積み立てていたので、倒産時には1,400万円のぐらいの退職金がありました。長年の獲得して生きた結果として、倒産しても積み立てていた退職金は守れました。ベテラン労働者が退職して、だんだんギリギリになる。そういう中で超勤拒否をしたり、闘争に入ったら毎日朝ビラをまいたりという行動を常にしていました。これに対してしんどいと思っている労働者はいっぱいいたと思います。(組合を)作ったこともないし組合なんてい知らない。という労働者がほとんどのなか、「これが組合だ」と活動を続けました。倒産時最終的に組合員は5人になりました。この5人とは、結成当初のメンバーです。まさか倒産するとは思わなかった。一時期は売り上げは24億円ぐらいあったのですが、バブルがはじけ、だんだん右肩下がりになり最終的には売り上げが8億円、負債が8億円となり、経営は傾きました。