UnionWorkshop
命がけの闘い_栗尾
新光美術の「前史」と言いうことで、
まず不当労働行為のはじめとして、'組合旗の撤去'ということがありました。
職場組合事務所の組合旗を取って返さない。
一年がかりで返してもらいましたが、これがもう一度ありました。
このときは、返してもらえず中央労働委員会の第三者機関で話し合いを行いました。
圧倒的に勝利する予定でしたが、そのとき作成したリアルなビラが原因で、組合旗を奪ったことは不当労働行為とは言えないという命令が出ました。
その2年後、私たち(組合)が使っていた職場を使わせないとか、「新光美術は”不当労働行為のデパートだ”」というぐらい不当労働行為がありました。
挙句の果てに、倒産半年前には組合員でない人を関連会社に移し(組合員だけ残し)、全員解雇という形を会社はとりました。
12月には新光インタナショナルという関連会社にすべて得意先を譲渡し、新光美術をつぶしたのです。
だから、1月5日に倒産・全員解雇を通告したのですが、会社としてはその前から解雇・倒産を進めていたのです。
管財人が「労働債権は出ない。出ていきなさない」という言葉から、われわれは正真正銘の「生きる」闘いに立ちあがったのです。 '管財人を説得すること'が我々の闘いの始まりでした。(最後には管財人の理解を得られました。)
1972年に労働組合結成(当時250人ほど)からずっと組合敵視されてきて、2001年の破産・全員解雇から争議解決まで毎日のように泊まり込み、毎日のように行動しました。
この争議は三役しか動いていないようなものでしたが、全印総連や大阪地連、MIC、地域の仲間が支えてくれたので、これだけ素晴らしい成果が生まれたと思います。
他の団体は、解雇されてから団体交渉はなかなかできないものですが、新光美術は団体交渉をずぅっと続けていきました。
15回目の団体交渉の前に書記長と話し合いをしました。
その内容は、
「この争議は命がけで行う。ほぼ合意に近いところまで持ってきたこの時期に白紙撤回・反故にされる場合は、出刃包丁を持って相手を刺す」
すると書記長は、「やったらええやん」と気軽に言ったので、わたしは家に帰って出刃包丁を持ってきました。
その朝、
「今日は大事な団体交渉やな。もしもわたしたちの言うことをひっくり返すということがあったら、やるから見とけ。あとは頼むぞ、書記長」
と私が言ったら、
書記長は青ざめて、「委員長!やめてれ!」・・・・というやり取りをしました。
さて、その団体交渉の内容は、"白紙撤回"でした。
なぜかというと、相手側の総合信用金庫の弁護士は、1047人のクビを切った大阪の顧問弁護士だったのです。
「こんなガタガタ言う労働組合に出す必要ない!」と白紙撤回にしたのです。
「なんで白紙撤回やねん」
とその日は帰りました。
しかし、その日に相手の経営者が新光美術にきました。
「私たちは、総合信用金庫を説得していました。・・・これから解決のために、経営者と労働者が手を組んで総合信用金庫に攻めませんか?」我々はこの誘いに合意しました。
和和解書
佐藤哲央(以下、「甲」という。)と新光美術労働組合(以下、「乙」という。)とは、株式会社新光美術(以下、「新光美術」という。)の倒産に端を発した甲または甲の親族並びに甲の主宰する関連会社と乙との間の紛争に関し、下記のとおり和解する。
一 .
甲は、新光美術の倒産に伴い、乙の組合員が、解雇され、その生活手段を失い、且つ、労働賃金・退職金などの未払いという経済的不利益を受け、これにより現在に至るまで精神的および経済的に極めて逼迫した生活を余儀なくされたことにつき、新光美術の代表者の親族として、或いは関連会社を主宰するものとして、その道義的責任のあることを深く認識する。
二.
甲は、甲の主宰会社である新光株式会社をして、乙に対して解決金を支払わせしめることを約束する。 但し、上記の金額、支払方法等については、別途覚書を作成して、これを定める。
三.
甲は、新光美術と乙の組合員である小林隆司氏との間の雇用関係確認訴訟が、新光美術の倒産により同氏の勝訴として確定したことに鑑み、新光株式会社をして小林氏を6か月間雇用せしめることを約束する。 ただし、上記の雇用の詳細については、別途覚書を作成して、これを定める。
四.
甲は、新光美術の代表者の親族として、同社代表者に代わって、新光美術倒産の止む無きに至った事情の説明、並びに新光美術の存続を図れずに乙の組合員に多大な負担を与える結果となったことの陳謝のため、乙の組合員との会合の場に赴くことを約束する。
五.
乙は、甲による本合意約定事項の履行と引き換えに、申立人を乙、相手方を甲、株式会社新光美術及び新光株式会社とする大阪府地方労働委員会平成13年(不)第43号不当労働行為救済申立事件の全部を取り下げると共に、甲及び甲の親族並びに甲の主宰する関連会社及びその関連取引先等に対する組合活動の一切を将来にわたって停止することを約束する。
六.
甲と乙は、甲及び甲の親族並びに甲の主宰する関連会社と乙および乙の組合員との間には、本和解書及び本和解書第二項及び第三項記載事項を取り決める別途覚書に定めたる約定以外には、互いに何らの債権債務のないことを確認する。七 甲と乙は、本合意約定事項が履行された後、双方とも一切の責任追及を今後行わないことを確認する。
その次の日、我々は地区労代表者会議に参加。その会議で新光美術のS(エス:スパイ)がいたのに気付きました。
そのスパイ組合員が"白紙撤回"の話を地区労でしていたのです(私たち三役が話をしていないのに・・・)。
会議の後の交流会で、
「何で白紙撤回になったことを地区労代表者会議でいわない?」
と持ち出してきました。
半年前初めて組合員になった人がいます。
今まで執行委員の経験をしたことがないので争議の経過(経営側と協力して信用金庫を責めることなど)を話したら大変なことになると思い、たまたまその日持って帰ろうとした出刃包丁があったので、
「お前らええかげんにせぇよ!なんぼ支援共闘会議の人間かも知れんが、三役は一生懸命争議をしていたんだ!やるんだったらやるぞ!」
と云ったら、
「新光美術はそこまで命がけでやってたんだ」
と支援共闘会議の連中が云ってくれました。
ここまで命がけの闘いをしていたのです。
10月1日、合意ました。
10月10日、全員解雇の争議は解決しました。
1月4日に突然解雇通知が届いてからの争議なので10月10日(とつきとうか)の闘いでした。
10月12日、佐藤哲央から「謝罪」を勝ち取りました。
私(栗尾)の場合、退職金・給料・一時金を含めて1千万ぐらいあったのですが、その労働債権は確保しました。 争議はじめの写真は組合員全員が下を向いていました。それだけ前が見えない闘いだったのです。
新光美術_争議の経過
1.前史
(1)新光美術争議の前兆
新光美術争議の前兆は、1989年の不当配転、組合旗撤去(第一次)事件でした。このときは、粘り強い職場での闘いと弁護団の援助で、不当配転を事実上是正させ、組合旗を1年後に返却させることができました。しかし、この組合旗返還を祝う集会で、会社として初めて食堂使用拒否をしたり、強引な配転(長谷川・樋口)を「仕事引き継ぎ仮処分裁判」を提訴してまで強行する事件も起こっていました。
(2)本格的な組合つぶし攻撃
2年後の92年春闘時、会社側は、会社施設(食道)の全面使用禁止、さらに再び組合旗撤去(第二次)事件を起こしました。以後、チェックオフ協定の一方的破棄、新入組合員への脱退強要、組合掲示板の新食堂への移設拒否、組合ニュースを奪う、新入組合員と長谷川副委員長に対する不当配転など、さながら不当労働行為のデパートと呼ばれる組合つぶし攻撃を次々と仕掛けてきました。
組合は、この間、職場での戦いや会社門前宣伝、経営者宅周辺宣伝、JR茨木駅頭宣伝などで、会社側の組合つぶし攻撃を断念させるべく闘いました。並行して地方労働委員会へ3件(施設使用、チェックオフ協定の一方的破棄、新入組合員と長谷川副委員長に対する不当配転)の救済申し立てを行いました。一方、会社側から宣伝差止めの仮処分と損害請求訴訟を起こされました。
私たちはこの攻撃を産業や地域の仲間が立ち上げてくれた支援共闘会議の指導と激励を受けて、さらに弁護団の協力な取り組みで闘いぬくことができました。一時は、労働委員会に3件、裁判所で2件、合計5件の法廷闘争を同時期に戦っている時期もありました。
(3)組合つぶし攻撃は、業績を急速に低下させた
この時期の経営実績は、「仕事や得意先よりも労務政策最優先」のため、職場モラルの低下、中堅幹部の退職、技術革新への不対応、得意先信用の低下などをきたし、バブル経済崩壊後の不況も重なって業績を急速に低下させていました。
(4)98年には初めての賃金遅配、工場敷地売却、小林君の不当解雇も
98年春から管理職に対する賃金遅配も出始め、秋には旧印刷工場敷地を売却して運転資金・賃金支払いに回すという事態にまで陥っていました。旧印刷工場敷地売却に先立ち、会社は全社員の9月賃金遅配や敷地内にあった組合事務所強制撤去、さらに賃金遅配の際に労働組合の集会に参加した小林隆司君を解雇することまで引き起こした。もうこうなれば、坂道を転げ落ち勢いで仕事量の減少、借入金の増大を招いていました。
2.前夜
(1)新光美術の倒産劇は、2000年春に計画され、夏から準備していた
このような事態になれば、普通の経営者ならそれまでの労務政策を改め、仕事最優先の経営に転換し、再建に取り組むのが常識ですが、新光美術経営陣はそれに取り組まず、最後に計画・実行した作が、今回の「労働組合をつぶして、新光関連企業12社全体のリストラを計る新光美術倒産」劇だったのです。この計画は佐藤哲央(佐藤康造の長男)常務が中心になって2000年春に立案され、夏にメインバンク=相互信用金庫と示し合わせて(新光美術は相互信用金庫から、関連会社=新光インターナショナルを迂回して3億円を借りる。その際、新光美術の営業権を新光インターナショナルに担保として提供する。この時すでに新光美術を党3なッセルことで相互信用金庫と話が出来上がっていた)手が打たれ、新光美術と新光関連おける役員交替、経理操作、得意先対策などが行われ、12月中旬からは職場でその具体的な出来事が次々と起こってきました。
(2)12月に新光インターナショナルへ得意先譲渡、債権譲渡通知を済ませた
私たちは、経営陣の「倒産」計画を12月初旬に察知しました。このまま手をこまねいておれば、11月賃金も受け取れずに放りだされる可能性があると判断し、12月12日に11月賃金の支払いを求める「仮払仮処分命令裁判」を大阪地裁に提訴しました。会社側は、計画通り12月16日に「おもな仕事、得意先、一部非組合員と管理職を関連会社=新高インターナショナルに移す」と発表し、12月20日付で新光美術の売掛金を新光インターナショナルに譲渡する「債権譲渡通知」を得意先130社に送付していました。
3.倒産・全員解雇
(1)2001年1月5日「全員解雇」通告。しかし、東京と大阪のひ組合員や管理職の多くは関連会社=新光インターナショナルに再雇用されていた
1月4日に12月末(カレンダーの関係で)の手形決済ができず、1月5日初出の朝一番に泉谷常務から、12月に就任した佐藤幸子(佐藤康造の妻)社長名の「全員解雇」通告がされたのです。この日、組合員のいない東京営業所の全員と大阪の非組合員管理職の多くは、関連会社・新光インターナショナルで再雇用され、今まで通り働いていました。
組合員は、それまで一定の学習をして予測をしていたものの、いざ実際に銀行や仕入れ先から「手形が落ちない」の電話が集中し、経営陣が逃げ出す事態になると、動揺は避けられませんでした。逃げだした経営者を絶対に許せない怒りの爆発とともに今日と明日の生活がどうなるのか、ともかく混乱した。解雇通知当日昼に蒲田弁護士に来てもらって事態の説明を受けたり、全員総連大阪地連や大阪争議団共闘の仲間の話を聞くなかで、「生活対策」「今、何をすべきか」などを全組合員で討議を重ねました。関連会社に移れなかった非組合員や一部管理職もこの討議に参加していました。
(2)管財人の「労働債権は出ない。出ていきなさい」からスタート。正真正銘の「生きる」闘いに立ちあがった
1月17日破産宣告、翌18日に破産管財人が職場に出て「労働債権は出ない。職場から出ていきなさい」と通告された際には、労働組合から「再建の芽を摘まないでください。機械設備の保全のため職場に止まります。今までの経営陣の異常な動きを明らかにすると同時に、経営陣の責任を追及していきたい」と管財人に私たちの意見を述べました。この場には非組合員や管理職を含む40数名がおりました。この管財人との初面談が、倒産・全員解雇争議に突入した新光美術争議の新たな闘いへ決意を表明する場になりました。
「生きる」ための闘いは、①雇用保険の申請、健康保険・年金保険の切替、未払賃金の立替払い制度など公的補助・減免制度の活用。②破産管財人に理解と協力を求める。③元経営陣への責任追及。「労働債権と雇用確保」を要求する。④債権譲渡した新光インターナショナル及び新光関連への宣伝。⑤3億円迂回融資で倒産劇に関与した相互信用金庫への要請抗議、など支援共闘会議や全印総連大阪地連の指導のもとにスタートさせました。このように整理した方針を決定したのは、1月24日の臨時大会でした。争議団員の家族には倒産直後、1月9日に事態の報告と激励する手紙を出すなど、終始、家族への配慮を毎日のように話し合いました。
(3)元経営陣=佐藤一族を、5項目要求で責任追及
元経営陣=佐藤一族の自宅周辺宣伝行動や新光インターナショナル及び新光関連事業所への要請宣伝行動を頻繁に取り組むことにより、元経営陣=佐藤一族との接点を見出すことができました。それは、佐藤康造前社長の長男でしんこうびじゅつじょうむとりしまりやく出会った佐藤哲央新光インターナショナル社長でした。1月下旬から10月10日の和解調印まで、佐藤一族と新光関連への責任追及の宣伝抗議行動を行いながら、のべ16回の交渉を重ねました。交渉は、「労働債権確保、雇用国保」の基本要求を掲げていましたが、2月20日に次の5項目に整理して提出しました。
第一に、大阪高裁における「小林隆司解雇は無効」判決確定を受けて、小林隆司さんを新光インターナショナルまたは新光関連で雇用し慰謝料を払うこと。
第二に、労働債権は、いかなる事情があろうとも全額の支払いを求める。
第三に、東京営業所や大阪の一部非組合員にと同様に、新光インターナショナルまたは新光関連での雇用を求める。
第四に、92年春以降の数々の「不当労働行為」に対する謝罪と損害額補填及び慰謝料を求める。
第五に、倒産時の佐藤幸子社長及び佐藤康造前社長が、全社員の前でわびること。
(4)「夏が勝負=正念場」で思いきり汗をかいた
元経営陣=佐藤一族との交渉は、4月・5月に入ってもいっこうに進展せず、「茨木で働き続けたい」のメドも立たず、解決の展望の見えない中だるみ状態になり、争議団員がい一人去り、二人去るという困難な状況に陥っていました。5月末には元東京営業所の占拠を試みるなど必死に打開策を探っていました。
5月から6月にかけて、支援共闘会議、全印総連大阪地連の指導を受けて「夏が勝負=正念場」と位置付け、次のように闘い定式化し、行動を徹底・強化しました。
第一に毎週水曜日に新光インターナショナル前の宣伝に取り組む、佐藤康造前社長がひきこもっている姫路の生家周辺に月一回の宣伝に取り組む、横浜にある佐藤新光インターナショナル社長宅周辺宣伝に徹底して取り組む、さらに7月からターミナル=南森町交差点での宣伝に月1回取り組む。
第二にメインバンク・相互信用金庫への貸手責任の追及活動の強化
第三に地労委への「新光インターナショナルに雇用せよ」不当労働行為救済申立てを出す。佐藤一族の違法性を追求して法的に「雇用確保」を求める取組み。
第四に支援の輪を広げる会員(支える会、支援共済会議)拡大
第五に大阪争議団共闘と連帯して闘うこと
(5)納得できる到達点に達することができました
この「夏が勝負=正念場」の闘いが結実し始めたのが、まさに夏の盛りでした。7月の11回目、8月の12回目の交渉から動き出しました。途中、相互信用金庫からドンデン返しの妨害がありましたが、これを乗り越え、10月1日に基本合意に達し、10月10日に和解文書に調印し、10月12日には佐藤哲央氏の謝罪面談、佐藤康造前新光美術社長から謝罪があって、新光美術争議を終結させることになりました。
和解合意内容は、第一に、「自己破産、全員解雇」により、組合員が経済的・精神的不利益を受けたことについて、「佐藤一族の親族として及び関連会社を主宰する者として、その道義的責任のあることを深く認識する」。第二に、小林君を関連会社=新光株式会社で6か月間雇用すると認めた。第三に、(争議団員には労働債権を上回る)解決金を支払う。第四に、佐藤一族を代表して佐藤哲央新光インターナショナル社長が、組合員の会合において謝罪する。第五に、労働組合は地労委に申立てた不当労働行為救済申立を、合意事項が履行された後に取り下げる、というものです。
昨年末から職場に泊まり込み、戦い抜いた争議団員14名は、小林君を除いて再雇用を約束させることができませんでしたが、経営者一族の責任において労働債権を上回る解決金を支払わせたこと、佐藤康造前社長と佐藤哲央新光インターナショナル社長が謝罪したことをもって、「全員解雇争議」「12年間の組合つぶし争議」を締めくくるにふさわしい到達点だと判断いたしました。
なお、闘いの多くの場面で破産管財人さんの理解を得られたことが、大きかったことを強調したいと思います。(新光美術労働組合「争議報告集」より)